おかわり自由な世界へ

音楽を中心に好き勝手綴る。兎にも角にも、おかわりは自由で。

『Woman』は男を殺し、親子を産む

『Woman』を観ていて…

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「Woman」

 

 普通にハマってます、『Woman』。タイトルイメージ関係なく、男の自分が観ていても、いろいろ考えさせられるドラマです。

でもこのドラマ、自分の周りだけかも知れないけど男性の視聴者が物凄く少ない気がします。逆に女性と話す際には、かなり高い確率で話題に上がるドラマでもあるんです。『Woman』というタイトルやストーリー自体、確かに女性中心のドラマではあるけど、自分としては性別を関係なく観れるドラマだと思うんだけど…

 

何故男性には響きにくいんだろう。

何故、自分には響いているんだろう。

 

男が入り込めない、男が邪魔とされる世界

主人公である小春(満島ひかり)は2人の子ども(望海と陸)を女身一つで育てるシングルマザー。夫である信(小栗旬)は不慮の事故により亡くなり、家庭を支えていた父親がいなくなった小春たちは、財政面や精神面で追い込まれていくことになる。

そして経済的に限界を向かえようとしていた小春は、20年前に自分と父を捨てた実母:紗千(田中裕子)と、紗千の現在の夫である植杉健太郎(小林薫)との交流を深めていくことになる。さらに紗千と健太郎の間に生まれた栞(二階堂ふみ)も、義理の姉である小春に何か”秘密”を持ちながら接してくるのである。そんな小春と植杉家とのアンバランスな交流の過程で、生活支援、託児保育、社会的地位、医療機関など、これでもかというほどの壁に小春たちはぶち当たる。

そんな困難な状況の中、小春も「再生不良性貧血」という病気であることが発覚。小春自身、また紗千を中心とした”家族”の関係は、一体どんな形となるのか。

 

このブログを書いている時点で第9話までが放送されています。栞が小春に秘密を打ち明けたり、紗千と小春の関係もドラマの序盤に比べれば、幾分か割り切った関係であることを、お互いが受け入れたかのように見えます。

 

このドラマには4つの家族が出てきます。青柳家、紗千を中心とした植杉家、そしてこの2つの家族に直接的な関係はないけど、見落としてはいけない砂川家。砂川家に関しては小春の通院している病院で働く藍子(谷村美月)と、小春たちの住む街の市役所員として働く良祐(三浦貴大)、そして息子の舜祐。実質、藍子は子育てを放棄してしまい、良祐が1人で育児をしている、という状況。あともう1つは春子のパート先のクリーニング工場に勤める蒲田家。ここでは砂川家・蒲田家について話さないけど、この2つの家族こそ、現実問題としては一番リアリティのある、どちらかといえばノンフィクションに近い存在だと思っています。

 

頭の中でドラマを振り返りながら大雑把に説明してみたけど、確かに男がそそられるような魅力は少ない。どの家族も、男は身勝手で、母や妻、とにかく女性が望んでいる言動の正反対のことしかしていない。その反動か、このドラマを男が観た時に感じる罪悪感や嫌悪感は、まさしく男である自分を罰しているかのような気分になるんじゃないかな、と。

 

以前、このドラマについてこんな記事を見つけました。 

 

 

この中でライター/イラストレーターである吉田潮さんは、このドラマを観ている男を、ドラマの中での健太郎たちを踏まえた上でこう語っている。

家事も子育ても、表面上だけ手伝って自己満足している男性に、このドラマはひそかに鉄槌を振り下ろしているのである。でも、そういう男だからこそ永遠に気づかないんだろうな。できる人は最初からできるもの。子供を風呂に入れたくらいで育メン気取り、ちょっと料理したりゴミ出したくらいで家事参加と威張る……それはやさしさじゃなくて自己満足。

嫁の地雷がどこにあるのか学ぶためにも、男性は『Woman』を襟を正して観るべき。

 

なるほど、嫁の地雷、というか男の自己満プレイ、か。

確かに重要なシーンに男はいない。いや、男は邪魔。意味もない、くだらない、根拠のない優しさでしか女性をフォローしようとしない。それが男にとって精一杯の優しさや思いやりでも、結局受け取る女性側の意見は殺伐としたモノになってしまう。もちろん、男自身も、その不甲斐なさみたいなモノには気付いてるんだろうけど。

でも、この"ドラマは男が観るべきだ"とまで、自分は言い切れない。そんな自らの立場や行動をドラマ越しに否定されるような危うさを、一日の終わりに感じるのは余りにも辛いだろうし。

じゃあなぜ、男である自分はこの『Woman』を観てるんだろう?

多分それは、このドラマには親子という可能性が見え隠れしているからだと思うんです。

 

"親"と"子"から"親子"へ。

紗千と小春。この2人は戸籍上"親子"です。しかし、このドラマでは"親"と"子"。この間にある「と」には、20年分の溝があることから、この2人は"親子"にはなれずにいる。

その象徴として、紗千と小春はお互いのことを"さん付け"でしか呼ばない。2人が話すシーンでは顔を向かい合わせることも少なく、目を合わせることはほぼ無い。とにかくよそよそしい会話と、しらじらしい時間だけが漂っている。

その溝が栞の存在でより深いモノになる。彼女がこのドラマの中でどういう立ち振る舞いをしたいのか、9話までの時点ではわからない。紗千と小春の関係は、どんなに病気や子どもたちが間に入ろうとも、生涯修復されることはないのだろう。 

 

それでも、2人は"親子"であろうとするんですよ。小春の病気が、紗千の後悔が、母と子の二度と戻らない絆じゃない、それとは別の新しい絆を生み出している。物語終盤では特にこの関係が力強く描かれていることが、まさにストーリー全体の救いにも通じていると思うんです。

男として唯一望みがあるとすれば、こういう再生や修復に目を向けることしかないのかもしれない。だって健太郎や良祐の成長はおそらくあり得ないし(男ってそんな簡単にプライドやらを捨てられない生き物だし)、それこそ、2人ともドラマ内の台詞でもあるように「まるでどっかのドラマの台詞」みたいなことしか言わない。まぁ、このフレーズをドラマで使うこと自体、皮肉ですよね。

そんな男の横槍も含めて、ドラマの中で"親"と"子"が、どんな形の"親子"になるのか。とても興味深く観てます。結局、ドラマの中でも外でも見ているしかできないんですかね、男ってのは。

 

 

家族というコミュニティーに正しい形はないけど、親子にはある程度決まった形があるんじゃないかな。そこに血の繋がりの違いや、何かしらの確執があったとしても、この『Woman』みたいな新しい絆が生まれる場所には、少なくとも"親"と"子"ではない、"親子"がいると思っています。

 

最終回はどうなるのかなぁ...幸せがゴールにはならないドラマだから、どんな最終コーナーを曲がってゴールテープを切るのか。そして男である自分はそんなゴールの瞬間にどんな気持ちを抱くんだろう?楽しみです。